才能の「才」は歳の略語なのに才能と年齢は関係ないの?

才能という言葉をよく聞くし、よく使う。
ふと気になったことがある。才能には年を取ることも含まれるのか?

「才」「歳」に加えて「年」という似たようなところで表記が変わる漢字が出てきた。私の中では、やはり年齢というイメージが強い。
しかし簡単に漢字の意味を調べてみても、才能に年齢は含まれていないようだった。
・とし【年・歳】という漢字に引っ張られ過ぎて「歳」の略字だからそこにも含まれるわけではないのか…。

・サイ【才】の意味 WEBから抜粋
生まれつきの働き、能力の意に用いる。
①頭脳のはたらき。生まれつきの能力。また、能力のすぐれた人。ざえ。かど。「才知」「英才」
②年齢を示す「歳」の略字として用いる。

ここでいう才能とは、生まれつきの備わっている能力の事を言うらしい。また、そうした能力が備わった人。とも書かれていた。「歳」の略字で「才」というのに引っ張られたわー。やだー。恥ずかしい。

才能は「才」の字で成立しているという事なのか?
いや、才能の2文字になった時により能力のイメージが強くなる。

・「才能」を辞書で引いてみる
生まれつきの能力。 また、その働きのすぐれていること。 才幹」(『日本国語大辞典』より)
「物事をうまくなしとげるすぐれた能力。 技術・学問・芸能などについての素質や能力」(『大辞林』より)と書かれている。らしい。
むむむ。動詞の「能力」と「才能」がごっちゃになる。
…そういえば才能は後天的という事を聞いたことがある。
ここでいう能力との才能の差はそこなのか?

ということはみんなスタートは同じという事なのだろう。
能力としては持っているけれど訓練や努力で伸ばすことで才能に変わっていくのか。
才能が無いという言葉はどこから来たのだろうか…w

これを書きながら思ったのは、やはり努力は必要なのだという再認識。
私がここで言いたい「努力」は自分の理想と今の自分との距離感を近くするためのことで、努力とはがむしゃらに行動することではない。
そして、理想の自分とのギャップを少しづつでも埋めていけば理想には必ず近づいていくという事だ。

しかし、ここで気を付けたいのは
やはりほかの人にはなれないという事で、まったく同じものになることはできないというところだ。
そこには、環境や、好みの差がある。友人関係もいろいろなことで私たちは自分を構成している。
生きるということは知識の共通認識だけでは「Yes」と言えないことがあるという事だ。

毎日でも食べたいものも、明日にはどうなるかわからない。
好きだったあの人も好きじゃなくなるのかもしれない。
通り慣れた道に違和感を感じるかもしれない。
変わっていくことは悪い事ではなく、ただの変化なのだ。だから今なのだ。
明日嫌いになってしまったら、好きだという気持ちを好きな状態で熱く語れないのだ。

そして、自分の中で大切なものと結び付けたくなるのがさがである。
考えることはみんな同じではないからこそ、反発してしまうが
もし明日嫌いなことを好きになっていく自分を見つけたらどうしようか。わたしも、あなたも、君もだれかも、みんな正しいってことは、あるんじゃないのかなと
柔軟でいるために私は絵を描きたいのだとこれを書きながら、また生きることを楽しむのだ。